こんにちは、今回は古代ギリシャ史においては欠かせないペルシア戦争についてです。
前回の記事では古代ギリシャが民主的な国家を築くまでの経緯について解説しましたが、今回はその古代ギリシャの歴史に強大なライバルが出現します。

その名もペルシア帝国。ギリシャの東方の巨大な国家で不穏な動きが見られるようになります。

エーゲ海を挟んで東方に位置するペルシアはアケメネス朝ペルシアという巨大な帝国を形成していました。彼らが西のギリシャを獲得しようと動いたことで、世界史を大きく変える戦いが起きることになります。

このペルシア戦争ですが、大きな戦いが計4つあります。高校の世界史だと、〇〇の戦い。〇〇が勝利。程度でしか書いていないのです!ああ、もったいない!その過程に熱いギリシャ人同士の友情・葛藤・思索の物語があるというのに!!

というわけで詳しく経過を解説していきますよ

古代ギリシャの民主政が確立されるまでの記事についてはこちら↓

戦いの火蓋が切られるまで

さて、ペルシア戦争はギリシャ諸国 vs ペルシアの構図で火蓋が切られるわけですが、その経緯についてまずは見ていきましょう。

まずペルシアについて、アケメネス朝ペルシアが起こったのは紀元前550年のこと。ギリシャでドラコンが民主制の基礎を築き始めたのが紀元前621年と言われているので、両者の歴史の長さに大きな差はありません。ただしアケメネス朝ペルシアの版図は広大なため、短期間に勢力を伸ばしたことは留意すべきでしょう。

紀元前525年にはエジプトが支配下に入り、アッシリア帝国がかつて支配していた地域を丸ごと征服します。(中東、中近東、北アフリカなどかなり範囲が広いことがわかるかと思います)

繰り返しになりますが民主政のアテネに対しペルシアは専制君主国
絶対的な君主が統率しており、アテネとは真逆の国政を敷いています。さてここまで巨大な帝国になったペルシアはいよいよ西方(ギリシャ)に目を向け始めます。

エーゲ海に近いサルディスを手中にし、スーサからサルディスまで「王の道」と呼ばれる街道を作りました。その後西側へ攻めたペルシアはイオニア地方の島々を征服、北のマケドニア・トラキアを属国にしたペルシアは徐々にギリシャ包囲網を作っていきます。※事前に土地と水を差し出せと勧告して、従わなかった場合には攻め入ったんだとか。

これらの地域は単なる征服以上に効果があります。ペルシアは陸をメインとする国であるため航海技術が備わっていません。一方ギリシャが位置するエーゲ海は交易で栄えたと言っても過言ではない地域。ペルシアは海洋民族であるフェニキアやイオニア地方のノウハウを活かしてギリシャに攻め入る準備をします。最もギリシャ対ペルシアの構図とは言ったものの、ペルシア内にはやむを得ず従ったギリシャ人たちが背後にはいるのです。

対するギリシャについてですが前回の記事でも紹介した通り古代ギリシャとは都市国家の集まりで形成されています。つまり、巨大な帝国ペルシア vs 複数の都市国家という構図なんです。激アツです。

マラトンの戦い

ついにギリシャのアテネと正面衝突することになった戦いがマラトンの戦いです。

率いたのはアテネのミルティアデス。都市国家アテネでは十人いる「ストラテゴス」がそれぞれ軍の総指揮をするのですが、この時はミリティアデスに指揮形態を統一したそう。機転が効きますよね。

当時の軍勢はというとペルシア2万5,000に対し、アテネはざっと1万。かなり不利な状況で戦況を優位に持っていく必要がありました。※人数については諸説あります。

そして彼らがどのような装備で構えていたかというと、ペルシアは馬に乗った騎兵たち(機動力もあるし、矢を射るなどの攻撃ができる)が主流なのですが、ギリシャを見くびっていたのかその騎兵たちはマラトン戦では参加せず、軽装歩兵が控えていました。対してギリシャは得意の重装歩兵。ファランクスという集団戦法で数の不利を上手く利用します。ちなみに槍の長さもギリシャ勢の方がペルシアの二倍はあったらしい。

ギリシャの重装歩兵の戦闘体系 <ファランクス>

そうはいっても数にして2倍の勢力を相手にしなければなりません。ミルティアデスはこの戦況に対して、中央の兵士を減らし、両翼の兵士を増やして敵を包囲するという奇策に出ます。中央は攻撃の要ですから逆の分配が当時は主流でした。

気になる結果はというと。。。ペルシア側の戦死者6,400人 vs アテネ側の戦死者なんと192人!

アテネは大軍を相手にしたにも関わらず、戦死したのは参戦した兵のわずか2%。大勝利です。

雑学程度ですが、この事実を40km離れたアテネに伝令兵が走って伝えたことから「マラソン」という言葉が誕生したと言われています。

テルモピレーの戦い

それまで無敗だったペルシアですが、マラトンの戦いで敗北したことは彼らの不敗神話を傷つけることになります。とはいっても兵力には差したるダメージはなく、再度の侵攻に向けて準備をし始めます。その勢力は諸説ありますが、二十万人強と言われていて、「不死身の男たち」と呼ばれる精鋭も含まれていました。しかし、マラトンで軍を率いていたダレイオスはなんと死亡。息子のクセルクセスにペルシアの命運は託され、必ず勝たなければならないプレッシャー。

対するギリシャ側はというと、こちらもペルシアの反撃を予期しており、普段は争っているポリス同士も休戦に合意しました。

テルモピレーの戦いの主人公はギリシャで最強の陸軍を有するスパルタ。なんと60歳にもなる老兵レオニダスが指揮をとります。

戦地となったテルモピレーは細く曲がりくねった道。アテネに向かう主要な道だったため、ペルシアの多数の軍勢は限られた人数で少しずつ進むしかありませんでした。

両者が様子を見る中、ペルシアはついに宣戦布告。これに対しレオニダスはというと「ΜΟΛΩΝ ΛΑΒΕ(取りに来たらよかろう)」と返答。カッコ良すぎるレオニダス。。。

数日間にわたって繰り広げられた戦いの結末は、スパルタ全滅(300人)に対し、ペルシア軍の死者2万人。

結果はスパルタの敗北で終わったものの、クセルクセスは1週間も足止めを食らい、圧倒的有利にも関わらず、多くの死者を出してしまいます。これには普段冷静なクセルクセスも怒り狂ったんだとか。このレオニダス率いるスパルタの勇姿は『300<スリーハンドレッド>』という映画にまでなっています。

ちょっとレオニダスが実際より若すぎますが、、笑

サラミスの海戦

世界史上で初めての大きな海戦となるサラミスの海戦はテルモピレーの戦いと同年に起こりました。

厳密にはテルモピレーと並行してアテネがアルテミシオンでペルシアを迎えていたのですが、この時ペルシアは嵐の被害を受け不完全燃焼。実質真っ向勝負となる海戦はサラミスの海戦が初めてでした。

さて、この戦いを主導したのはアテネのテミストクレス。彼はミルティアデスを庇護していたアテネの政治家でペルシアに対して常に危機感を持っていた人物でした。

テミストクレスはマラトンの戦いの後、いつかは海戦になることを予期していて、アテネの三段櫂船を来たる海戦のために着々と準備していました。この用意周到な対策がサラミスの海戦で実を結びます。

テルモピレーの勝利で慢心していたペルシアは相変わらず多くの兵を従えサラミス湾に入りました。彼らの船は大群を遥々乗せてきたため、巨大な船です。対してギリシャ勢は戦闘のために造っていた小回りの効く、小型船。しかもこの船は機動力を持ちつつ重量があった(石をたくさん詰め込んでいた)ため、激突力がありました。ペルシアの三百隻はパニックに陥り瓦解。

またしてもギリシャの勝利に終わりました。

実数にして、ペルシアの損壊した船、300~400隻に対しギリシャは40隻程度だったと言われています。

この戦いの漕ぎ手になったのは無産市民(資産を持たない貧しい人々)。彼らの地位がペルシア戦争後に向上したことにより、民主政の完成へと近づいていきます。

プラタイアの戦い

ペルシア戦争の最後を締めくくるのはプラタイアの戦い。こちらは平原での地上戦。あとが無くなったペルシアは出し惜しみをしていた騎兵をぞろぞろ連れてきます。ギリシャ側はというとアテネとスパルタの連合軍。スパルタも今回は300の軍勢のみでなく、5,000を率いてきました。

ペルシアの騎兵 vs ギリシャの重装歩兵となるわけですが、今回ギリシャは平原の後ろの丘陵地帯に撤退するふりをして、騎兵の機動力が無くなったタイミングで重装歩兵の長槍で馬を倒す作戦に出ます。

こう考えると、ギリシャ側は毎回地の利を生かしたり、相手の裏をかいたりと数的不利を戦略的に補っている気がしますね。頭いい!

結果はペルシアの死者7万人に対してギリシャの死者159人。これまでと比べ物にならない大勝でした。この戦いを機にペルシアは完全撤退、ギリシャ世界に平和がもたらされました。

まとめ

いかがでしたでしょうか!巨大帝国ペルシアに対して、これまで敵対関係にあったポリス同士が一致団結する様は、胸が熱くなりますね。
巨大な帝国であったペルシアですが、軍勢の少ないアテネ勢力に負けるはずがないと慢心していたのが敗因になりました。


その後のギリシャはどうなったか?ペルシアは?に関しては、後日投稿予定なので楽しみにしていてください!

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